古典から学ぶということ

知ることは行うことの始まりであり行うことは知ることの完成

昨日は3年通った大学院の卒業式だったけど(5月頃にかいた記事です。)

どうしても次男のサッカーの大会を観に行きたくて悩み抜いて欠席。

大阪の南の方まで2日間行って来ましたが天気も良かったしゴールも見れたし。

グラウンドの横ではグルメフェスまでやっていて美味しいものも食べれたし

卒業式は残念だけど、どちらも今だけのことだからじっくり考え

自分の本当に大切にしたいことを改めて考えながら過ごした週末でした。

海鮮丼、まぐろがドーンっておいてありました。

解体ショーは見れなかったけど、捌きたての新鮮なやつでペロリ。

 

サンドイッチ。中身はミートにトリュフが入ってます。

 

ハンバーガー。ガッツリ和牛のバーガー。

全部仕事なんですけどね、(^_-)-☆

 

そんな大学院は卒業したけど学びは継続というか全く足りていないので

今は経営道場という本を読み仲間と感じ合うという学びを行なってます。

そんな課題図書だから出会えただろう本が「陽明学-生き方の極意-」

なかなか古典なんて手に取ることもないので良い機会になりました。

 

しかし、古典とはいえ、今でもつながる考え方が素晴らしい考え方で

今も昔も人間の本質的なところは変わらないのかなと感じました。

少し備忘録に深ぼって書いてみようと思います。

 

“人間は誰でも「良知」という立派な素質を天から授かっているのだそうです。

それに磨きをかけていれば、おのずから心の拠り所も得られて、

しっかりと自分を確立することができるはずです。”

 

まずは外に求めてはいけない、自分の中に全ての答えがあると考える。

これは人に対する関わりを持つ時にとても重要な考え方。

 

“苦労は、誰のためでもありません。自分のためなのです。

なるべくなら苦労に負けないで、

むしろ、苦労をバネにして自分を磨いていくことが望まれるのです。“

 

自分に答えがあると考えるならば自分に対して厳しくしなければいけない。

だから苦労をみずからの体験と考えて自ら果敢に取り組めるかが重要。

 

“良知というのは、実はこの世の中の生きとし生ける者すべてを

一体のものとみなす仁の心だというのです。

わかりやすく言いますと他人の苦しみを自分の苦しみとして

感じる心だと言ってよいかもしれません。“

 

自らに矢印を向けながら心で感じることができなければ

人のこころについて理解することは到底できない。

このあたりはこころについて深く考えたことを改めて思い出すけど

自分への意識や体験が浅いと人のことまでわからないというのはすごく理解できるし

本当に今後の自分への課題だと感じている。

 

“人は誰でも天から授かったすばらしい素質「良知」をもっている。

ただし、せっかくの良知でも、ほうっておくと欲望によって曇らされてしまう。

だから、社会有用の人間をめざすためには、

常に良知の発現をはかって修養につとめなければならない。“

 

そして苦労と共にこころを養うということによって

自らの懐を広げるということに努めないといけない。

 

“良知の発現においては、知ることと行うことは一体のものでなければならない。

また、自分を磨くうえでも、実践や仕事を通して磨くことが重視されなければならない。“

 

では、どのように自らと向き合い心を養うか。

それは何事においても実践の中でしか得ることはできない。

だから色々なことに取り組まなければいけない。

仕事以外にも人と関わりをもつあらゆることの中で自らに矢印を向け

様々な感情を理解し解釈し続けることで磨き続けなければいけない。

 

“良知はまた万物を一体のものとみなす仁の心であって、

それがあるかぎり他人の不幸を見過ごすことはできない。

だから良知の発現は、自分だけの修養にとどまらず、

ただちに社会問題の解決に奔走する激しい熱気のようなものを帯びることになる。“

 

そして自らの心の痛みと共に成長した暁には

人のこころの痛みがわかる人になっているだろうという考え。

そして、人のこころの痛みをほっとけないという気持ち。

この人間理解については本当に共感しかない。

 

“知ることは行うことの始めであり、行うことは知ることの完成である。

ほんとうに物事を会得したときには、

知ることのなかにすでに行うことが含まれているのであり、

行うことのなかにすでに知ることが含まれている。“

 

そして知行同一と言われる所以。

学ぶことにどのような意味があるか?

学ぶだけではなぜいけないのか?

ここに答えがあると思う。

 

“人生における最大の病気は、傲の一字、すなわち傲慢であることだ。

謙虚はあらゆる善の基であり、傲慢はもろもろの悪の始まりである。“

 

このように自らを常に厳しく捉えるように心持ちを保つことが

今人生の中で成長するために様々な経験を体験している意味だと

本当に日々の出来事を無駄にしないようにと思う考えでした。

この王陽明という壮絶な人生を成し遂げる上で築かれた考え方は

本当に今の現代でも通用する力強いものだと思います。

 

(ここからは5月に書いた文章を読み、今日書いています。)

MBAでは経営のこととしてマーケティングとか戦略を学ぶものだと思っていました

だけど、実はこうして、人について深く学ぶ機会もあるんです。

だから、経営がおもしろくなるし、学び続けるようになるんだと思います。

また別の古典にもトライしたいと思っています。日々勉強ですね。

 

しかし今期は結構激しい科目を3科目学ぶ予定なので、

3ヶ月は激動の学びに明け暮れさせてもらい、年明けくらいに少しじっくり

自分を見つめるような時間をとうかなと思います。

この陽明学、改めて良い機会に振り返ることができて良かったです。

学んだことを、すぐに行動に移す。

まずは、それをしっかりと継続するところ。

大切ですね。頑張りましょう。

カテゴリー: MBA(経営学修士), ヒトリゴト, 仕事論, 食べるコト   タグ:   この投稿のパーマリンク

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